「えーっ、ここを登るんですか?!」
目の前には、屏風のように立ちはだかる尾根。その屏風の壁に白いジグザグが刻まれている。そのジグザグは気が遠くなるほど、何度も何度も折り返し、延々と天まで続くようだ。
「もしかして、あれが道? あそこを歩くのだろうか。」
見上げていると、自然に口があんぐりとなってしまう。
「さあ、行かんまいけ。」
私の前を歩き出したのは、富山県警の若き山岳隊員「ケンちゃん」。この雷鳥沢の山岳警備隊の派出所まで私を迎えに来てくれたのだ。私は、地鉄、ケーブルカー、そしてバスを乗り継いで、ここ室堂の雷鳥沢についたばかり。
「迎えに来たついでに荷揚げをする」と、ケンちゃんは言っているけれど、どう見ても「荷揚げのついでの迎え」だ。とにかく半端ではない量の荷物を背負っている。荷物のいちばん上にはスイカが入ったダンボール箱だ。
「迎えがくる」というから、荷物を持ってもらえるかもしれない…などという甘い期待は、いっぺんに吹き飛んだ。それどころか、生まれて初めて背負ったキスリング(ザック)にひっくり返りそうになっているのに、「これ、持ってもらえんけ」とケンちゃんから、なぜだか箒とバケツを持たされた。これも運び上げる荷物らしい。
「何でこんな所に来てしまったんだろう。来るんじゃなかった…。」
目的地の剱沢へ行くには、どうもあの尾根を(もちろん歩いて)越え、それからまた下らなければいけないらしいと、ここへ来てはじめて知って愕然とした。
ただ「雷鳥沢へ行けば迎えが来ている」の言葉を頼りに、剱沢がどこなのか、どれぐらい歩くのかなど、まったく考えずにやって来てしまったのだ。
ことここにいたって、やっと自分の状況が少しずつわかってきたけれど、後の祭り。
ことの起こりは、大学2年の夏休みをひかえ、「山小屋でアルバイトをしたい」と私が言い出したことだ。
学生時代、ヒマさえあれば一人旅であちこちへ出かけていた。特に夏休みは、前半はアルバイトに明け暮れ、後半はそのアルバイトで稼いだお金で旅に出るというのがお決まりで、1年生の時は1ヶ月間、東京に残って豆腐屋でアルバイト。後半は南紀と能登の旅に出た。
2年生の夏休みの旅は北海道と決めていた。そのためのアルバイトはどうしようと考えているうちに「山小屋でアルバイトがしたい」と、なぜか思いたったのだった。
するとそれを聞いた母がさっそく兄に相談してくれた。母の兄、つまり私の伯父はその頃、隣町の上市高校の美術教師をしていた。そして山岳部の顧問だった。
「どうせなら剱岳がいい」などと、わかりもしないで軽い気持ちで電話口の母に言ったものだから、伯父は一生懸命に探してくれたようだ。山小屋は登山客相手に、朝早くから夜遅くまで大忙しで、私のような初心者には務まらないだろうと伯父なりに考えてくれ、剱沢の「山岳警備隊」のアルバイトの話を探してくれた。そして夏休み前には、当の私が知らないままに本決まりになっていた。
これは後から知ったのだが、山岳警備隊員の中には、上市高校の山岳部出身者が何人もいて、みな伯父の教え子だった。
「サンガクケイビタイ? 山の警察?」「なんだかおもしろくなさそう…山小屋の方が楽しそう。」
伯父の苦労も知らず、そんな調子でいた私は、電話口で母にしかられた。
夏休みに入るか入らないかのうちに、大急ぎで帰省した。訳もわからないままに、富山県警まで辞令をもらいに行き(これには驚いた)、その帰りにキャラバンシューズを買った。
キスリングは伯父と母が準備してくれていたけれど、登山靴はさすがに足に合わせないでは買えない。
…と、そんなこんなで取るものもとりあえず、指定の日時に雷鳥沢の派出所にやって来たというわけだ。
それにしても、この時の私の「他人任せのお気楽ぶり」には、我ながら呆れる。こんな調子で山へやって来られたら、まわりはたまったものじゃないと、少しは分別のついた(?)今なら思う。せめて「剱沢ってどこだろう」「どれぐらい歩くのかな」ぐらいのことは、考えなかったのだろうか、はて?
バチが当たったのか、雷鳥沢からの登りは、それはそれはきつかった。そりゃあそうだ、小学校の立山登山以来、山なんか一度も登ったことがないのだから。その上、背負った荷物の重さがこたえた。生活に必要なものは揃っているとはいえ、1ヶ月ともなると衣類その他が結構な重さになる。それが肩に食い込む。
ケンちゃんもかなり苦しそうだ。荷物が重いのに加えて、スイカまで背負っている。雷鳥沢で先輩の山岳警備隊員から「ケン、岩にぶつけてスイカ割るなよ。絶対に転ぶなよ。」なんて言われていた。
それだけでも神経を使うのに、ド素人の私のおまけつきだ。
歩いているうちに、20人ぐらいのパーティと一緒になった。最後尾のリーダーはケンちゃんと知り合いらしく、ふたことみこと言葉を交わすと
「どうぞお先に。」
などと言って、道を譲ろうとしている気配。
「いいっちゃ、いいっちゃ。」
顔ではニコニコ話しながらも、本音はかなり無理をしているから、ケンちゃんが断る。ところがどうも相手は、遠慮していると勘違いしているらしい。
「何をおっしゃる。さあさあ…。」
挙句のはてに、前に向かって大声で叫んだ。
「道を譲ってー! 山岳警備隊の人が通るよ!」
…うそだ。
さすがにそう言われたら、ケンちゃんも行かざるをえない。脇によって道を譲ってくれる人たちが口々に「山岳警備隊だって」「へえーっ」などと話している横を、とりあえず颯爽と歩く。
ケンちゃんが行けば、とにかく私もついて行くしかない。箒とバケツを下げて、ただただ歩く。最悪だ。
ところがそれだけではすまない。そこは「山岳警備隊」、追い越したからといって、すぐに「やれやれ」とスピードを落すわけにはいかない。姿が見えている間は同じペースで歩き続ける。見えなくなったからといって気を許すわけにもいかない。間違っても追いつかれたりなどという、格好悪いことはあってはいけないのだ。
そして困ったことに、そんなペースで歩くから、また前のパーティに追いついてしまう。そしてまた同じことの繰り返し。
状況は悪くなる一方だ…。
ケンちゃんも私も、もう何も話さない。休むこともできなくなって、二人で黙々と歩いた。私は頭がガンガンしてきて、泣きそうになった。
天気が悪かった記憶はないのに、景色は何一つ覚えていない。
剱沢の派出所にやっとのことでたどり着くと、佐伯栄治さんがやさしく迎えてくれた。
「よう来た、よう来た。」
私は挨拶もそこそこに、そのまま寝込んでしまった。
そんなこんなで始まった剱沢の山岳警備隊での生活だった。その体験はまた後日書くとして、そんなある日、栄治さんが「剱のゴミ拾いに行くがだけど、一緒に行かんか? 剱に登ったことないがだろ?」と誘ってくれた。
本当は山に登るのはもうコリゴリと思っていたのだけれど、せっかく誘ってもらったし、天気もいい。それに何より荷物もなく、手ぶらで行けるらしいのでついていくことにした。アルバイトの高校生の男の子3人、女性2人と一緒だった。
尾根を歩くと、剱沢からは見えなかった富山平野が眼下に広がった。常願寺川の川筋がキラキラ光る。森や道路や集落も見える。遥かに海岸線がぼんやり浮かぶ。
「じゃあ、あの辺りが家だ。」
生まれて初めての、山の上からの景色だった。
綿菓子のような白い雲が、2つ3つ、プカプカ浮いている。それが視線の下で、平野との間に浮かんでいるのが不思議で、最初は雲だとわからなかったぐらいだ。なんだか童話の世界に迷い込んだような、想像もしなかった世界だった。
そんな景色の中を、栄治さんが後ろ手を組んで、まるで散歩をするように歩いていた。
「山を、こんなに楽しく気持ちよく歩くこともできるんだ」と初めて知った。
そして剱岳の頂上に立った。小学校の立山登山以来の2つめの山頂だった。
ふつうは山に登る場合、たとえば東京近郊ならば高尾山に登って、山の空気に触れてその良さに感動。次に奥多摩の山を歩き雲取山挑戦。そして八ケ岳に通い、北アルプスへ…というのが一般的だろう。
「初心者の山歩き」的なガイドブックでも、少しずつ難易度を上げるようにと薦めている。
ところが私の場合は、初めての山が小学校の立山登山。そして2つめの山が、岳人の憧れの剱岳。それも「なりゆき」で登ってしまった。
そしてこの1ヵ月後に、これまたなりゆきで3つめの山、北海道の利尻山に登ってしまうとは、私自身、夢にも思っていなかった。

馬場島の手前からの剱岳
文中に登場する伯父・尾井和男に描いてもらったもの。伯父は剱岳が好きで、剱の絵ばかりを描いている。剱の手前の山は中山。剱の展望がよいため、最近は登る人が多いらしい。
文中に登場する「ケンちゃん」こと佐伯謙一さん。
30年以上勤めた山岳警備隊を退官。お父さんの佐伯伝蔵さんのあとを継ぎ、現在は剱岳・早月尾根の早月小屋(旧・伝蔵小屋)の主。その早月小屋のページです。
文中に登場する伯父・尾井和男
上市信用金庫の毎年のカレンダーで剱岳を描いています。興味のある方はご覧ください。